日野菜の発見地とされる日野町鎌掛の山中「観音屋敷」・・・・・

最新更新日:2008年1月2日

2008年1月2日

日野菜が発見されたという「室町の時代」、日野町鎌掛山中にあると伝えられる観音堂のあった観音屋敷とは・・・・。 500年前の観音屋敷とはどのような場所であったのでしょうか・・・・・

 『日野町志』によれば『日野菜は原と蒲生家の居城音羽城の附近、爺父渓(やぶそ)(藪岨)と称する地点(現今日野町、鎌掛組合山林中)の野生種にして葉及び根は紫紅色を帯べる蕪菁の一種なり
 蒲生貞秀入道智閑、曽て爺父渓に在る観音堂に参詣せし時、見馴れぬ菜のあるを見て之を採り来り、試みに漬物となさしめしにその色澤桜花の如く艶美にて風味亦佳良なりしかば、 野生しある地点を開墾し観音堂の僧に命じて栽培せしめたる菜を以て漬物とし・・・・・・・云々

 鎌掛の歴史を学ぶ会 瀬川欣一著「ふるさと鎌掛の歴史」第1巻の中に観音屋敷のことが書かれてありましたので引用させていただきます。

19神の山、宝殿が岳
 信仰の山であった小岳の山と同じように、鎌掛にはもう1つの神の山があります。東にそびえている「宝殿が岳」です。
鎌掛の山々のうちの最高峰が、山並みの中で三角に尖って見える「厨頭冠山」(くりやまとやま)で、この山は研石(といし)がでますことから「研山」とも「研石山」とも呼ばれてておりました。
ちょうど蔵王ダムの南になり、石楠花谷の東の谷の奥に当たります。この厨頭冠山を中心に、標高がほぼ同じ高さの尾根が東西につながりますので、古くはこれらの尾根全体を「長城山」(ちょうじょうざん)とも呼んでおりました。
その長城山の西端が標高629メートルの宝殿が岳で、国土地理院の地図などには「猪鼻岳」(いのはなだけ)と書かれ『蒲生旧蹟考』には『長嶺トモ云ウ。峰上ニ数嶺アリ、城楼ヲ望ムガ如シ。西方ノ1峰ヲ宝殿ケ嶽ト云ウ。モト小嵩(こだけ)ノ神ヲ祭ルトコロナリ。
本名彦神山、俗ニ猪鼻ケ嶽、乗服山数名アリ。爺父磯(やぶそ)ノ上ナリ」と、この山のことが書かれてあります。(中略)

 養老2年(718年)とは奈良時代です。綿向山の大嶽に対して元はこの山が小嶽であって、神の館、すなわち宝殿が建てられていたとあり、 後年になってその神が小岳の山に移されたのだと書かれてあります。こうして奈良時代の大昔から、宝殿が岳も神の山として崇められてきた山でした。
宝殿が岳の頂上からやや東の尾根に「馬越」という、この急峻な尾根を越す細い道の峠があり、その馬越の場所は、 あきらかに尾根を2メートル以上も削り取って馬をも通りやすくした個所があります。
大字蔵王からこの馬越へ通じている一つの山道があり、その道を蔵王では「馬道」と呼んでいます。そのように呼ぶ以上、昔は馬も通れた道だったのでしょう。
この馬越の峠から鎌掛側への道を探していきますと、消えてなくなっている部分もあるのですが、厨頭冠山(研山)の山腹から石楠花谷へ下りてくる山道がたどれます。 昔の鎌掛の人々がこの道をたどって研石を拾いにいった道であり、この道の途中に観音屋敷と呼ばれている一画があり、 観音屋敷にあった1堂の仏像が、今の正法寺本尊の十一面観音像なのだといい伝えられます。
今は誰も通らなくなったこの山の道は、数百年前の日野谷にとって大変に重要な道であり、修験道に励む山伏たちが盛んに行き交う道だったのです。 修験道とはわが国固有の宗教で山を神とし、その山の霊気の中で神と一体となる宗教であり、役行者(えんのぎょうじゃ)を宗祖と仰いだ山伏たちが、 綿向山を修行の場として盛んに活動していたのが日野谷における平安時代から、室町時代にかけての数百年間の歴史でした。
関西での修験道の中心地が吉野山であり大峰山であり紀州の熊野です。
それらの神々のうち吉野山の蔵王権現を迎えたのが蔵王村であり、熊野権現を迎えたのが熊野村なのですから、蔵王、熊野、西明寺、音羽などに住んでいた多くの山伏たちは、 吉野山や紀州の熊野へ往復するためにこの道を通ったのでした。・・・・・・・・・(後略)

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