蒲生貞秀智閑の和歌

最新更新日:2008年1月2日

2008年3月11日 日野菜の発見者 蒲生貞秀 飛鳥井雅親卿の和歌

  蒲生貞秀が現在の日野菜の原型を発見した年は明らかにされていませんが、智閑公貞秀が音羽城主であった頃のある年、 現在の大字鎌掛の山中にある石楠花谷付近の、耶斧祖川付近にあった観音堂へ貞秀が参詣した時、その堂の付近で自生している珍しい  この菜を発見したのだと伝えられている。
 根の部分が紅白に染め分けられた美しい根菜であったため、こころみにこれを採取して漬物にしてみたところ、色艶もよく風味に富んだものであったため観音堂の僧に命じて種を採らせ、 音羽城内で翌年からこれを栽培させた。
 秋になり再び工夫を加えつつ漬物に仕上げると昨年以上のできばえだったので、連歌を通じての友であり師でもある都の公家、 飛鳥井雅親卿に漬けあがった美しい菜を1樽贈り、一首の和歌をそれに添えた。
  「ちぎりおきて けふはうれしく いづる日の など暁をうらみわびけん」=《今日あなたと逢う約束をしておりましたのが大変うれしくて、はやく目が覚めました。 ところがまだ陽が昇ってなく、薄暗い暁の状態でした。早く陽が昇らないかと恨んでおりました。》
 都で贈られて来たこの珍しい漬物を賞味した飛鳥井雅親卿は風味が良かったために後柏原天皇に献上すると天皇も大層よろこばれ漬物の色が桜色であったため「この漬物を桜漬と名付けて和歌を送ってやれ」と仰せになった。
そこで飛鳥井雅親卿はつぎの一首を詠んだ。

 「近江なる 檜物の里の桜漬 これぞ小春の しるしなるらん」
     この和歌が礼状とともに音羽城へと返送されてきた。これ以来貞秀は京都へあがるたびに桜漬を献上し、この菜は日野菜と呼ばれるようになり、漬物を桜漬というようになった。・・・・・・・・。

貞秀の父 秀綱より氏郷までの系図
秀綱
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貞秀
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秀順ー高郷ー秀行
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   定秀 秀紀
    |
   賢秀
    |
   氏郷
       


蒲生貞秀、蒲生氏郷 蒲生家の菩提寺


信楽院貞秀智閑公ゆかりの品々も所蔵されている。

蒲生貞秀墓所=菩提寺 信楽院裏より臨める南の小高い山の中腹にその墓所がある。

「標の松塚」

蒲生貞秀墓所内

左側に「永正十年」とある。1513年である

蒲生貞秀についての石文

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