日野菜は渡来人が運んできた・・・・NO.2

最新更新日:2006年9月11日

鬼室集斯(きしつーしゅうし)とは、 百済復興運動挫折後に渡来した百済人。

滋賀県日野町小野:鬼室神社

日本にいつ頃、カブが渡来して来たのかは定かでありません。 しかし、弥生時代より前縄文時代にはすでに栽培されていたのでしょう。
 記録的には、持統天皇が桑や栗、梨などと共に、カブの栽培を奨励した(持統天皇の七年:693年)ことが、 日本書紀(720年)に記載されております。万葉集(753年)にも,蕪菁(かぶら)とか蕪(かぶ)、蔓蕪(かぶらな)と言う名前で登場します。
そして、春の七草の一つスズナ(小菜)として広く人々に親しまれていました。

日本書紀(六)一部抜粋
持統天皇 七年三月丙午条詔。令天下勸殖桑紵。梨栗。蕪菁等草木。以助五穀。丙午(十七日)の日、詔して、 天の下をして桑、紵、梨、栗、蕪菁等の草木を勸め殖ゑて五穀を助けしめたまひき。 =『日本書紀』(720年)持統天皇の条に 「ひのえうまの日にみことのりして、あめのしたをして、桑、紵(からむし)、  梨、栗、蕪菁らの草木をうえすすめうえしむ。これを五つのたなつものを・・・・

韓国恩山面:恩山別神堂

 蕪菁とともに、日本原産の栗は古い歴史があり、 縄文時代三内丸山遺跡 (青森市・約5500年前)には大規模な栗栽培の跡があったそうです。
 現在の日本栗の先祖は全国に自生していた「芝グリ」と呼ばれる小粒の野生種で、 それが徐々に改良されて江戸時代には「品種」らしい名前がつけられるようになったと伝えられています。
 そして世界の栗の中で、日本の栗に最も近い栗の生息地は朝鮮半島とされておりますと、 日本の風土にも合う「栗と蕪菁」日本書紀にあります、665年鬼室集斯百済の高官)の一行が「白村江の戦い」 (663年)の後、数々の薬草、木の実など、草木の種を持ち込み、日本の在来種とともに、それらの新しい栽培技術を伝授したと考えられます。

1年おきに行なわれる恩山別神祭

鬼室集斯(きしつーしゅうし)とは、 百済復興運動挫折後に渡来した百済人。
近江朝廷が大津に都を定めた頃、学歴頭を勤めた文化人。
この人のお墓が、私たちの町滋賀県蒲生郡日野町小野の「鬼室神社」にあります。
この鬼室集斯の父、福信(ふくしん)将軍が大韓民国 忠清南道  扶餘郡 恩山面の恩山別神堂にお祀りされている関係で、 韓国恩山面と日野町は姉妹都市として交流が盛んに行われています。
この韓国恩山面、百済復興運動の遺跡や国立扶餘博物館を始め、 白馬江などの観光名所があり特産品として栗が有名だそうです。

 渡来人の故郷は今も栗が特産品。韓国の恩山面に日野菜のDNA をもった祖先があるかもしれない・・・・・こんな思いをめぐらすとますます万葉のロマンが駆り立てられます。

2006年3月31日より私当サイトの「家主」は日野菜の祖先を訪ねて、韓国恩山面を訪問いたします。 韓国恩山面で日野菜の祖先を見つけることができるでしょうか・・・・。

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