日野菜とは

最新更新日:2021年7月18日

日野菜は「かぶら」の仲間

 かぶは日本全国各地に、約80もの品種があり、原産地は世界遺産バーミヤン渓谷のあるアフガニスタンあたり。
 日野菜の祖先もシルクロードを渡り、中国、朝鮮半島を経て、はるばる日本に伝わって来たのかもしれません。 長い歴史を思いながら日野菜を食するとき、その味の広がりに悠久のロマンを感じます。

 

「近江日野産日野菜」は室町時代、滋賀県蒲生郡日野町鎌掛の山中で発見され、550年余り栽培が続けられて来た在来種です。葉はビワ型をしており草姿は立性、茎は紫紅色、根は長型円筒形で地上部(抽根)が紅紫、地下部は白色をしています。種子は地元日野町深山口地区で生産されています。日野菜は「かぶ」の一種で、日野の地名を冠し日野町の気候風土に適合した野菜として室町時代、江戸時代、明治、大正、昭和、平成の時代を経て栽培が続けられて来ました。肉質は緻密で程よい苦味と辛みがあり葉の青さ抽根の紫紅色、下部の白色のコントラストも良く、漬物をはじめとして多彩な料理に利用されています。

現在の日野町産出の「近江日野産日野菜」
 明治から大正にかけて、日野町在住の種苗業者の方が何代にもわたり、苦労され品種改良されたのが現在の日野菜です。
 以来地元の篤農家や地域、JA、関係当局が一体となって、伝統野菜「日野菜」を伝承しております。

『日野町志』より引用

『近江日野町志』(近江日野町教育会編、発行者片岡英三 昭和5年) によれば『日野菜は原と蒲生家の居城音羽城の附近、爺父渓(やぶそ)(藪岨)と称する地点(現今日野町、鎌掛組合山林中)の野生種にして葉及び根は紫紅色を帯べる蕪菁の一種なり 蒲生貞秀入道智閑(室町時代領主・西暦14441514)、曽て爺父渓に在る観音堂に参詣せし時、見馴れぬ菜のあるを見て之を採り来り、試みに漬物となさしめしにその色澤桜花の如く艶美にて風味亦佳良なりしかば、野生しある地点を開墾し観音堂の僧に命じて栽培せしめたる菜を以て漬物とし之に一首の歌を添えて飛鳥井大納言雅親卿に贈れり。“ちぎりおきてけふはうれしく出づる「日野菜」と「あかつき」を恨みわびけん”と雅親卿 更に之を後柏原天皇(104代、皇紀21612186年、西暦15011526)に献じ奉りしに天皇喜ばせ給ひ、其の桜花に似たりとして桜漬と題して詠歌仕れと仰せられたれば雅親卿かしこみて“近江なる檜物の里の桜漬けこれや小春のしるしなるらん”と奉じたれば天皇叡感斜ならす。此の由飛鳥井家より智閑へ沙汰ありてより、遂に桜漬けの名あり是より智閑上洛の度毎に此の菜を献上することとなれりと伝う。(飛鳥井雅親が書いた日記「篠軒小録」)また命を受けて栽培せしところを菜畑という。また命を受けて栽培せし観音堂の僧の功を賞し、蒲生家より菜畑という姓を与えり。(菜畑慧徳氏はその後裔なりと云う)天正年間、蒲生氏郷勢州移封の時此の菜種と此の地の土とを持ち行きて彼の地に栽培し、松阪移住者の持ち行きしこと次の書の如し。後会津にも播種せしと伝ふ。恁る由緒ある菜なれども、其後自然に任せて種子の改良に意を用いる者無かりしが、日野町吉村源左衛門其子源兵衛(是より代々源兵衛の名を襲ふ)培養の方法を研究し種子の改良を圓り、種源と稱し種子商を営み、諸方に行商し、五代を経て吉村正治郎(吉田の分家にして故あり姓を改めしも種子商を継承し種源と稱す)に至り、大いに之が改良に盡瘁し、風虫の媒介によれる変種の原因を避け、共同栽培地を選定し(南比都佐村深山口等)規約を設けて濫賣を禁じ、遂年精良の種子を収穫し販路漸く擴がり、内地は勿論遠く満州朝鮮地方に及び、聲價大いに揚り優に日野町の特産となれり。大正611月陸軍特別大演習を湖国の野に行われ、大元帥陛下親しく御統監あらせらるるに當、日野町農會は吉村正治郎に嘱託し、日野菜を培養せしむ。吉田即ち爺父渓菜畑の清浄なる地点を選択し、齋戒沐浴誠意を以て培養に従事し遂に精良なる菜を得たり。農會は之を桜漬けに謹製して献上せしに、御嘉納あらせられたるは農會無上の光栄なり。又彦根大本営に県下の物産を陳列して天覧に供え奉りし際、吉田より出せし日野菜はお買い上げの光栄に浴せり。(是時篤農家山下治三郎も日野菜をだし天覧の名誉をたまわえり)

付記 蒲生家の故城下伊勢松阪、奥州会津、伊豫松山等には今に日野菜を栽培す。然れども地味により形色共に変化せりと。 

『本草綱目啓蒙』(1802)に「一種のあかかぶ一名あかな一名むらさきな一名日野菜一名近江なり。その葉油菜に似て紫色根長さ五六寸にして圓ならず色紫赤用にて、くきづけとなす江州日野の名産なり。 他に移し栽ればその色変すとあり、その後『證類本草引日華本草』『続江戸砂子』にも出てくる。

  カブには珍しい長根で、径約3cmで長さ2030cmになる。抽根部があざやかな紫紅色、下部が白色で、その色の対比が非常に美しい。もっぱら漬物に加工され、独特の香りがあり、賞味されている。 葉は立性でわずかに欠刻があり、紫紅色をおびている。保水力のある排水のよい土層の深いところが適している。 次の写真は『近江日野町志』(近江日野町教育会編、発行者片岡英三 昭和5年)に掲載されている日野町大谷出身の月岡雪鼎の写真図、日野菜の原型とされている。


絵は、日野町志に掲載されている日野菜の原型とされている絵であり、根の部分も赤と白に見事に描かれている。

*月岡雪鼎 (つきおかせってい) 1710~1786 大坂
 近江国日野大谷に生まれ、同郷の狩野派の絵師高田敬輔に学んで絵画の基礎を積み、中年以降は大坂心斎橋筋に住み、絵本に才能を発揮して人気絵師となった。 のち肉筆の美人画に独自の スタイルを確立して大坂画壇に重きをなし、数多くの作品と優れた弟子達を世に送り出した。 77歳で没。法橋、法眼に叙任された。

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