日野菜の沿革

最新更新日:2006年9月11日

日野町志によれば

滋賀県に於ける蕪菁の品種と其の栽培 : 昭和15年頃発行
滋賀県立農事試験場―神田武氏・門野一雄氏監修書物より引用

 『日野菜は原と蒲生家の居城音羽城の附近、爺父渓(やぶそ)(藪岨)と称する地点(現今日野町、鎌掛村、西大路村の組合山林中)の野生種にして葉及び根は紫紅色を帯べる蕪菁の一種なり
 蒲生貞秀入道智閑、曽て爺父渓に在る観音堂に参詣せし時、 見馴れぬ菜のあるを見て之を採り来り、試みに漬物となさしめしにその色澤桜花の如く艶美にて風味亦佳良なりしかば、 野生しある地点を開墾し観音堂の僧に命じて栽培せしめたる菜を以て漬物とし之に一首の歌を添えて飛鳥井大納言雅親卿に贈れり。 “ちぎりおきてけふはうれしく出づる「日野菜」と「あかつき」を恨みわびけん”と雅親卿
  更に之を後柏原天皇(104代、皇紀2161-2186年、西暦1501~1526年)に献じ奉りしに天皇喜ばせ給ひ、 其の桜花に似たりとして桜漬と題して詠歌仕れと仰せられたれば雅親卿かしこみて “近江なる檜物の里の桜漬けこれや小春のしるしなるらん”と奉じたれば天皇叡感斜ならす。此の由飛鳥井家より智閑へ沙汰ありてより、 遂に桜漬けの名あり是より智閑上洛の度毎に此の菜を献上することとなれりと伝う。また命を受けて栽培せしところを菜畑という。 また命を受けて栽培せし観音堂の僧の功を賞し、蒲生家より菜畑という姓を与えり。(現在、菜畑慧徳氏はその後裔(血筋)なり。 天正年間、蒲生氏郷勢州移封の時此の菜種と土とを彼の地に持ち生きて彼の地に栽培し、後会津にも播種せしという。云々』とある。

 日野菜の発祥地である菜畑には今柵をめぐらし、沿革を記した額を掲げて保存せられている。 尚蒲生家の故城下である伊勢松坂、奥州会津及び伊予松山等には古くから日野菜、緋ノ菜及び赤紅蕪菁の栽培がある由である。
 そして本種が世に広められるに至ったのは、寶暦年間(1751年-1761年)日野町の源兵衛なる者で種子商を営み諸方へ此の種を行商したのに始まり、 後数代にわたり源兵衛を襲名し、“種源”と称し、日野菜の種子を扱っていた。当初においては赤菜、 深山口菜と称しいたるも嘉永年間(1848年-1853年)源兵衛の努力によって他国へ販路を拡張するにいたり日野菜の名称が一般的になったものである。
当時源兵衛氏は販路拡張のため、行商人の腰に赤手拭を挟み商標としたため「深山口の赤手拭」なるあだ名を得、その後各地において秋季ともなれば、 赤手拭の訪れるのを待ち受けて栽培に着手した。

 今日(昭和15年頃)においては、南比都佐村のみにても60反歩の栽種組合があり日野町を中心として生産せられる種子は内地はもちろん広く満州地方にも多量に輸出せられている。
(此の文面は昭和15年当時発行の滋賀県立農事試験場書物より引用させていただき、当時の日野菜の沿革をお知らせしたく掲載したものであります。 一部文言は内容を重視し変えさせていただきました)

日野菜の発祥地である菜畑には今柵をめぐらし、沿革を記した額を掲げて保存せられている。 尚蒲生家の故城下である伊勢松坂、奥州会津及び伊予松山等には古くから日野菜、緋ノ菜及び赤紅蕪菁の栽培がある由である。 そして本種が世に広められるに至ったのは、寶暦年間(1751年-1761年)日野町の源兵衛なる者で種子商を営み諸方へ此の種を行商したのに始まり、 後数代にわたり源兵衛を襲名し、“種源”と称し、日野菜の種子を扱っていた。当初においては赤菜、深山口菜と称しいたるも嘉永年間(1848年-1853年)源兵衛の努力によって他国へ販路を拡張するにいたり日野菜の名称が一般的になったものである。 当時源兵衛氏は販路拡張のため、行商人の腰に赤手拭を挟み商標としたため「深山口の赤手拭」なるあだ名を得、その後各地において秋季ともなれば、赤手拭の訪れるのを待ち受けて栽培に着手した。

滋賀県に於ける蕪菁の品種と其の栽培  (その2)

(昭和15年頃発行?:滋賀県立農事試験場―神田武氏・門野一雄氏監修書物より引用

日野菜
沿革:日野菜は、別名緋ノ菜、あかな、えびなとも称せられられ滋賀県蒲生郡日野町を中心に広く県下に栽培がある。 近時三重県鈴鹿郡石薬師村及び伊賀上野地方に多く栽培せられ更に全国各地に分布するにいたった。
 本県原産の蕪菁中有数のものとしてその沿革に就て記録せられたものが多いが大同小異である。

諸葛菜(スズナ):中国の軍師「諸葛亮」からその名が広まる。

  スズナは春の七草のひとつで「蕪(かぶ)」のことであり、中国では『諸葛菜(しょかつさい)』と呼ばれています。
日本でも古くから野菜として栽培されてきましたが、平安時代の初期、宮中の年中儀式や制度等をまとめた『延喜式』(西暦701年)という書物にもたびたびでてきます。
中国での呼び名「諸葛菜」の由来は中国が三国時代(西暦220年~280年)蜀の皇帝(劉備)の軍師として活躍した諸葛亮(諸葛孔明)の名に起因しています。 諸葛孔明は「三顧の礼」「水魚のまじわり」「天下三分の計」等の言葉で有名であり類い希な軍師として長く人々に語り継がれてきました。 孔明が広い中国の国土に軍を進めるとき、留まった拠点には好んでカブを植えさせました。

 その理由は6つあります。
 1つ、わずかに出始めたばかりの苗は生で食える。
 2つ、葉が伸びれば煮て食える。
 3つ、久しくそこに滞在すれば、益々繁茂し成長する。
 4つ、捨て去っても惜しくはない。
 5つ、再びその地に向かった場合に探し求めやすい。
 6つ、冬にも根があって食える。

 このように他の植物に比べるとその利点は甚だ広い点に注目したのです。このことから、蜀の国ではカブのことを諸葛菜と呼ぶようになりました。
(『本草綱目』)さらに、種子は油を搾って燈油にして用いることも記されています。但しこの油の煙は目を痛めるそうです。

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