日野菜は蕪菁の仲間。カブはアフガニスタン近辺が原産地といわれている。
紀元前の相当古い時代から栽培されていたようで、紀元前1~2世紀のギリシャ、ローマではすでに
いろいろな種類のカブが作られていた記録があります。
日本でも奈良時代以前に渡来したといわれ、
日本書紀(720年成立)には
持統天皇(686年頃)が桑や栗とともにカブの栽培を奨励したと書かれています。
日野菜は約500年前、当時の領主だった蒲生貞秀が発見したと伝えられています。
日野町志には「日野菜は原と蒲生家の音羽城の附近、爺父渓(やぶそ)と称する地点の野生種にして
葉及び根は紫紅色を帯べる蕪菁の一種なり 蒲生貞秀入道智閑、曽て爺父渓に在る観音堂に参詣せし時、
見馴れぬ菜のあるを見て之を採り来り、試みに漬物となさしめしにその色澤桜花の如く艶美にて風味亦佳良なりしかば、
野生しある地点を開墾し観音堂の僧に命じて栽培せしめたる菜を以て漬物とし・・・・」とありますが、
なぜ「音羽城の附近、爺父渓(やぶそ)と称する地点の野生種・・・」になったのか興味があるところです。
私の日野菜栽培の畑は、日野町大字三十坪字野辺1312番地にあります。
この地は通称「三光寺」と呼んでいますが、昔大きな三光寺というお寺があったと聞かされています。
今までに果樹を植える時の穴掘りの途中に「宝篋印塔」?「寄せ集め塔」?の宝珠(一番上の頭石の部分)が出土したことがあります。
其の宝珠、愛東町にある百済寺庭園内にある寄せ集め塔の宝珠とそっくりでした。
この畑の近くに必佐公民館があります。この必佐公民館の建ってある土地は縄文土器が発見された「野辺遺跡」の上にあります。
「万葉の蒲生野しぐれ寺そびえ」夢宵 この俳句の碑が必佐公民館の庭にありますが、
「ひつさ」の名前、三十坪の地名(条里制の名残)
まさにいにしえのロマンを彷彿とさせてくれる土地であります。
この俳人夢宵氏の生前の言葉に「昔この土地当たりは渡来人の文化が栄えた土地で、
天智天皇の頃、天皇は次の宮地の候補地としてこの蒲生郡「必佐郷」を求められた。
そのため当時大陸の高度な技術集団、百済の人たち700人あまりがこの地に移住してきた・・・・」と聞きました。
私の想像でありますが、日野菜の原型「かぶの一種」が、日本書紀
の天智4年(665年)「鬼室集斯」等が渡来しその後天智8年(669年)、
鬼室集斯一行700名余りの男女が近江の国蒲生郡に遷され・・・・・
数々の薬草の中のひとつとして、この蒲生野の地に植えられたのではないかと思えてなりません。
カブはやせ地でも育つ救荒作物であり、アフガニスタンから
シルクロードを経て
朝鮮半島より日本に渡ってきました。
そして宮中を中心にカブの人気が高まり、持統天皇
(686年頃)が桑や栗とともにカブの栽培を奨励したと思われます。
この仮説、蒲生貞秀が発見したとされる1474年から、さらに800年あまり遡ることになります。
これから私「家主」のひとりごととして、思いつくままの日野菜のルーツ800年の仮説をお楽しみください。(以下次回をおたのしみに・・・)
スズナは春の七草のひとつで「蕪(かぶ)」のことであり、中国では『諸葛菜(しょかつさい)』と呼ばれています。
日本でも古くから野菜として栽培されてきましたが、平安時代の初期、宮中の年中儀式や制度等をまとめた『延喜式』(西暦701年)という書物にもたびたびでてきます。
中国での呼び名「諸葛菜」の由来は中国が三国時代(西暦220年~280年)蜀の皇帝(劉備)の軍師として活躍した諸葛亮(諸葛孔明)の名に起因しています。
諸葛孔明は「三顧の礼」「水魚のまじわり」「天下三分の計」等の言葉で有名であり類い希な軍師として長く人々に語り継がれてきました。
孔明が広い中国の国土に郡を進めるとき、留まった拠点には好んでカブを植えさせました。
その理由は6つあります。
1つ、わずかに出始めたばかりの苗は生で食える。
2つ、葉が伸びれば煮て食える。
3つ、久しくそこに滞在すれば、益々繁茂し成長する。
4つ、捨て去っても惜しくはない。
5つ、再びその地に向かった場合に探し求めやすい。
6つ、冬にも根があって食える。
このように他の植物に比べるとその利点は甚だ広い点に注目したのです。このことから、蜀の国ではカブのことを諸葛菜と呼ぶようになりました。
(『本草綱目』)さらに、種子は油を搾って燈油にして用いることも記されています。但しこの油の煙は目を痛めるそうです。