滋賀県日野町小野:鬼室神社
日本にいつ頃、カブが渡来して来たのかは定かでありません。
しかし、弥生時代より前縄文時代にはすでに栽培されていたのでしょう。
記録的には、持統天皇が桑や栗、梨などと共に、カブの栽培を奨励した(持統天皇の七年:693年)ことが、
日本書紀(720年)に記載されております。万葉集(753年)にも,蕪菁(かぶら)とか蕪(かぶ)、蔓蕪(かぶらな)と言う名前で登場します。
そして、春の七草の一つスズナ(小菜)として広く人々に親しまれていました。
日本書紀(六)一部抜粋
持統天皇
七年三月丙午条詔。令天下勸殖桑紵。梨栗。蕪菁等草木。以助五穀。丙午(十七日)の日、詔して、
天の下をして桑、紵、梨、栗、蕪菁等の草木を勸め殖ゑて五穀を助けしめたまひき。
=『日本書紀』(720年)持統天皇の条に
「ひのえうまの日にみことのりして、あめのしたをして、桑、紵(からむし)、
梨、栗、蕪菁らの草木をうえすすめうえしむ。これを五つのたなつものを・・・・
韓国恩山面:恩山別神堂
蕪菁とともに、日本原産の栗は古い歴史があり、
縄文時代の三内丸山遺跡
(青森市・約5500年前)には大規模な栗栽培の跡があったそうです。
現在の日本栗の先祖は全国に自生していた「芝グリ」と呼ばれる小粒の野生種で、
それが徐々に改良されて江戸時代には「品種」らしい名前がつけられるようになったと伝えられています。
そして世界の栗の中で、日本の栗に最も近い栗の生息地は朝鮮半島とされておりますと、
日本の風土にも合う「栗と蕪菁」日本書紀にあります、665年鬼室集斯
(百済の高官)の一行が「白村江の戦い」
(663年)の後、数々の薬草、木の実など、草木の種を持ち込み、日本の在来種とともに、それらの新しい栽培技術を伝授したと考えられます。
1年おきに行なわれる恩山別神祭
鬼室集斯(きしつーしゅうし)とは、 百済復興運動挫折後に渡来した百済人。